阿部 八郎(あべ はちろう、1925年1月6日 - )は、福島県出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)・解説者。

来歴・人物

小学校出のプロ野球選手。福島県熱海小学校から社会人野球の全福島日東紡へ入団。在籍時に阪急ブレーブスなど複数球団のスカウトマンだった宇高勲にスカウトされ、1949年に阪急ブレーブスへ入団。

1949年は2勝に終わる。同年オフのセ・パ両リーグ分立に伴って、セ・リーグの新球団である西日本パイレーツの選手集めのため、宇高が阪急の選手の大量引き抜きを行う。ここで、個人的に仲が良かったセ・リーグの鈴木龍二から「(引き抜きに)用心しろ」と忠告を受けた阪急監督の浜崎真二は1日中阿部に付いて離れなかったため、阿部は引き抜きを受けず阪急に留まった。

2年目の1950年7月20日の近鉄戦(日生)で、9回2死までヒットを許さずノーヒットノーラン達成かと思われたが、伊藤利夫に打たれ惜しくも逃す。このシーズンはチームでは野口二郎(15勝)に次ぐ14勝を挙げた。翌1951年もチームトップの12勝と2年連続二桁勝利を挙げるとともに、150奪三振を記録して最多奪三振を達成。その後も1953年・1955年・1956年に二桁勝利を挙げ、特に1955年は15勝(11敗)防御率2.20(リーグ4位)とキャリアハイを記録した。

1959年に10年選手制度(現在のFA制度に相当)で西鉄ライオンズに移籍。しかし、未勝利に終わり、同年限りで現役を引退した。

その後は、サンテレビボックス席解説者(1974年)を務めている。

詳細情報

年度別投手成績

  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

  • 最多奪三振:1回 (1951年) ※当時連盟表彰なし、パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

記録

  • 初勝利:1949年9月4日、対東急フライヤーズ14回戦(西宮球場)

背番号

  • 14 (1949年 - 1959年)

脚注

参考文献

  • 『ベースボールマガジン1973年春季号 プロ野球トラブルの歴史』ベースボール・マガジン社、1973年

関連項目

  • 福島県出身の人物一覧
  • オリックス・バファローズの選手一覧
  • 埼玉西武ライオンズの選手一覧

外部リンク

  • 個人年度別成績 阿部八郎 - NPB.jp 日本野球機構

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