チャールズ・アブラハム・エッセジアン(Charles Abraham Essegian、1931年8月9日 - )は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン出身の元プロ野球選手(外野手)。

NPBでの登録名はチャック

経歴

学生時代

アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで生まれ、5歳からロサンゼルスで育つ。フェアファックス高校を経て、スタンフォード大学に入学。大学時代では野球とアメリカンフットボール(ラインバッカー)をプレーした。アメリカンフットボールでは1952年のローズボウルに出場するが、ワールドシリーズとローズボウルの両方に出場したのは、ジャッキー・ジェンセンに次いで史上二人目である。

アメリカ球界時代

1953年から1959年までマイナーリーグ(MiLB)で7シーズンでプレー、717試合に出場し、打率.311、97本塁打を記録した。

1958年フィラデルフィア・フィリーズにてメジャー初出場を果たすと、39試合に出場し打率.246、5本塁打を記録する。翌1959年にセントルイス・カージナルスを経て、ロサンゼルス・ドジャースに移籍する。ドジャースでは24試合の出場ながら打率.304を記録してリーグ優勝に貢献。ワールドシリーズでも代打で2本塁打を放つが、代打本塁打2本はシリーズ記録となっている。特に1本目は0勝1敗で迎えた第2戦の7回表1-2の場面での同点打であり、この代打本塁打でシリーズの流れが変わり、ドジャースは4勝2敗で優勝を果たした。

1961年にはボルチモア・オリオールズ、カンザスシティ・アスレチックス、クリーブランド・インディアンスの3球団を1年間で渡り歩き、インディアンスでは後半戦60試合に出場して、打率.289、12本塁打、35打点を打つと、翌1962年は左翼のレギュラーとなり、打率.274、21本塁打、50打点のキャリアハイを記録した。1963年に再びアスレチックスへ復帰すると、101試合に出場するも、打率.225と成績を落とした。

日本プロ野球時代

1964年に近鉄バファローズに入団。豊富なメジャー経験から中軸を期待され、開幕後しばらくは五番を打つが、4月半ば以降は六番や七番の下位打線を打つようになり、結局打率.263、15本塁打、41打点の平凡な成績に終わり、1年で退団、帰国した。なお、同年9月3日の対南海ホークス戦で投手のジョー・スタンカと投球を巡って乱闘に及ぶが、これが外国人選手同士1対1の初めての乱闘とされている。

引退後

引退後は法学士を取得、南カリフォルニアで弁護士になり、1987年までこれを務めた。

詳細情報

年度別打撃成績

記録

MLB
  • ワールドシリーズ最多代打本塁打:2本(1959年) (のち、1975年にバーニー・カルボ〔レッドソックス〕がタイ記録で並ぶ)

背番号

  • 27 (1964年)

脚注

参考文献

  • 近藤唯之『プロ野球 騒動その舞台裏』新潮文庫、1990年
  • 『決定版日本プロ野球外国人選手大鑑 (BBmook―スポーツシリーズ 224)』ベースボールマガジン社、2002年

関連項目

  • メジャーリーグベースボールの選手一覧 E
  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧

外部リンク

  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)

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